幼児教育の経済的利益とは何か?

 きのう日経新聞経済教室」に寄稿したが、字数の制約などのために書ききれなかった内容が多少あるので補足しておきたい。以下の内容は記事と一部重複する。

幼児教育の主な利益は将来の労働所得増加と犯罪の減少

 認可保育所に多くみられるような良質な保育施設は、幼児教育施設としての側面も併せ持つ。近年の経済学の研究では、幼児教育施設は社会にとって有望な「投資先」とみなせることが示されている。シカゴ大学のヘックマン教授らの一連の研究によると、社会経済的に恵まれていない子供達が良質な幼児教育プログラムに参加した結果、成人後の労働所得が増加する一方、犯罪への関与など社会的に望ましくないとされる行動は減少している。

f:id:mendota:20170621042846p:plain

 図は幼児教育が生み出す様々な経済的利益を試算したものだ。ヘックマン教授によると、ペリー幼児教育プログラムはその費用1ドルあたり6.2ドルの経済的利益を生み出した。これは内部収益率で評価すると年率8%にも上り、株式投資から得られる平均的な収益率を大きく上回る。

 主要な経済的利益のひとつは労働所得の増加だ。幼児教育が子供の能力を引き出し、学校卒業後に高給かつ安定した仕事に就けるようにする。加えて、この労働所得の増加に伴い社会福祉に対する依存が弱まるため、関連する政府支出も抑えられる。もう一つの重要な経済的利益は犯罪の減少によるものだ。犯罪被害者がこうむる経済的損失が避けられるのみならず、警察、司法、収監に関わる費用が抑えられる。

 ここまでの話の元になっているのは以下の論文である。

Heckman et al (2010), "The rate of return to the HighScope Perry Preschool Program", Journal of Public Economics, vol. 94, pp. 114-128.

健康面も改善

 ペリープログラムではなくノースカロライナのABC/CAREというプログラムを評価した別論文になるが、ヘックマンらは健康に対する影響も評価している。幼児教育の結果、喫煙、薬物の乱用が減るほか、成人後の健康面の改善もみられ、幼児教育が健康で質の高い生活を送ることに寄与しているそうだ。ただし、健康面が改善して長生きするため、医療費は多少増える。

 この研究については学術論文以外にも色々と資料が提供されており、以下のページからアクセスできる。

heckmanequation.org

数字の解釈には注意が必要

 これら経済的利益に関する数字はもちろん様々な前提条件をおいて試算されたものであるから注意が必要だ。犯罪の減少や健康面の改善をどのように金銭価値に換算するかは簡単ではないし、何をどこまで含むかによっても数字は大きく変わりうる。正しく理解するには論文を読むしかないが、控えめに言ってもこれらのプログラムについては「元は取れた」としていいように思える。

「英才教育の効果」ではないことに注意

 

 ヘックマンらの一連の研究はいろいろなところで取り上げられているが、彼らの研究結果は幼児期の英才教育を奨励するようなものではないことに注意してほしい。彼らの研究が対象としている幼児教育プログラムは貧しい家庭を対象としたものであり、そうした家庭で育つ子供達にとって幼児教育が大いに有益だとしているにすぎない。上のグラフで示したとおり、その主な利益の源泉は犯罪の減少であり、ハーバードのようなエリート大学を卒業することではない。

 日本の保育園の効果を検証した私達の研究にしても同様であり、社会経済的に恵まれない家庭の子供について、保育所に通うことが彼らの行動面を改善することを発見している。幼児期の英才教育には効果があるかもしれないが、それは分析の対象外だ。

 次回の更新では、こうした経済的利益を踏まえると、幼児教育の費用はどのように負担されるべきかという点について私見を述べる。

 

 

日経新聞 「経済教室」掲載記事の参考文献

日本経済新聞の「経済教室」というコーナーに寄稿した。

www.nikkei.com

要点は以下の通り。

  • 幼児教育としての保育は、将来的には大きな経済的利益出しうる。
  • 保育所に通うことで、社会経済的に恵まれない家庭の子供達の社会情緒的な能力が改善。
  • 保育政策は全ての家庭を支援対象にすべきだが、その度合を経済的状況に応じて変えていく必要がある。特に恵まれない家庭への厚い支援が必要。

記事で触れている研究論文は以下に記しておく。

厚生労働省・21世紀出生児縦断調査を用いて、日本の子供についての保育所の効果を測定した私達の論文がこちら。

papers.ssrn.com

幼児教育の経済的利益を計算したヘックマンらの論文はこちら。

Heckman et al (2010), "The rate of return to the HighScope Perry Preschool Program,"  Journal of Public Economics, vol. 94, pp. 114-128.

字数の制約から詳しく書けなかったこともあるので、そうした点について、後日このブログで補足する。

保育園は子供の発達にどんな影響?厚労省データによる検証

f:id:mendota:20170513120718j:plain 待機児童問題は、長年に渡る重大な社会問題のひとつである。批判はあろうが、待機児童問題の解消は安倍政権も重要視しており、最終的には女性就業率と出生率の向上に結びつけたいようだ。

 北米・欧州諸国においても保育所の充実は重要な政策課題であるが、日本とはやや異なり、母親の就業よりも子供の発達に与える影響に論点の重きが置かれている。つまり保育所を幼児教育施設と見なし、そこで過ごすことが子供たちにどのような影響を与えているのかが重視されているのだ。

良質な幼児教育プログラムは有望な「投資先」

 親からすれば子供の発達を気にかけるのは当然のことであるが、実は、ここには経済的な損得勘定も絡んでいる。シカゴ大学のヘックマン教授らの一連の研究によると、社会経済的に恵まれていない家庭の子供が良質な幼児教育プログラムに参加した結果、成人後の犯罪への関与と薬物使用が減少する一方、就業率と収入の増加、健康状態の改善に繋がった。ヘックマン教授の計算によると、この幼児教育プログラムの投資収益率は年率13%にもなる。*1

  このように、保育所が子供に与える影響は親にとってのみならず、社会全体にとっても大きな関心事となりうる。保育所で過ごすことは子供たちの発達に良いのだろうか、それとも悪いのだろうか。ヘックマン教授らの研究はアメリカの事例であり、社会構造の違いを考えると、同様の結果が日本に当てはまるかどうかは直ちに明らかではない。

保育所利用が子供に与える影響をデータで検証

f:id:mendota:20170513115333j:plain

 私達の研究グループは厚生労働省・21世紀出生児縦断調査から得られたデータを分析し、保育所入所が2-3歳のこどもの発達・行動面に与える影響を評価した。このブログ記事では主要結果の概要をできるだけ簡単に伝えたい。

 データや統計的手法の詳細が気になる読者は、以下のリンク先にある元論文を読んで欲しい。一言だけ述べておくと、単純に保育所に通っている子供と通っていない子供を比較して論じているのではなく、相関関係と因果関係の区別に注意を払った因果推論の手法に基づいている。*2

papers.ssrn.com

恵まれない家庭の子供に大きな効果

 もっとも重要な発見は、社会経済的に恵まれていない家庭の子供の攻撃性・多動性が大きく減少していることだ。*3 この子供たちは、保育所に通わなかった場合、他の家庭の子供たちに比べて高い攻撃性・多動性を示しがちであるが、保育所に通った場合にはそうした傾向を見せない。つまり、保育所に通うことが、恵まれていない家庭の子供たちの行動面を改善させているのだ。

 保育所に通わない場合は、家庭環境の差が子供の問題行動の差にそのまま表れやすいが、保育所ではどの子供も同じように育てられるので、そうした差が生じにくくなるというのが理由のひとつだ。

母親のしつけの仕方、幸福度も改善

 保育所に通うことで変わるのは子供だけではない。社会経済的に恵まれていない家庭の母親のしつけの仕方、幸福度も大きく改善している。具体的に言うと、こどもを叩いたり、暗いところに閉じ込めてしつけようとすることが減る一方、なぜダメなのか言葉で説明することが増えている。同時に、母親が子育てから感じるストレスが減り、子育てから喜びを感じられるようになっていることがデータから示されている。

 母親のしつけの仕方が改善した理由の一つには、保育所を通じて、しつけの仕方を学んでいることがあるようだ。*4 これはしつけの仕方がわからないと答えた母親の割合が減っていることに表れている。より良い子育ての仕方を親に教えるようなプログラムは、子供の問題行動を減らす上で有効となりうることを、この分析結果は示唆している。

平均的な家庭の子供には悪影響なし

 平均的、あるいはそれ以上に恵まれている家庭の子供たちにとっては、保育所に通う場合と通わない場合で行動面に大きな違いは見られない。もちろん個人差や特殊なケースはあるかもしれないが、全体的には、保育所の利用が子供の発達に有害であるという証拠は見つけられなかった。

貧しい家庭への支援は社会全体にも有益

 この研究は、保育所の利用は社会経済的に恵まれていない家庭の子供と母親の厚生を大きく改善することを示唆している。それ以外の子供たちの発達には良くも悪くも大きな影響を与えないようだ。

 現在の制度下では、保育所利用料金は世帯収入に応じて低減措置が取られているものの、ひとり親家庭生活保護世帯を除くと、世帯収入は利用調整の点数に影響しない。従って、恵まれない家庭といえども、必ずしも保育所利用が優先されているわけではないのだ。

 現段階での研究では保育所利用の長期的な効果は未知数であり、ヘックマン教授のように投資収益率が何%であるか数字を挙げることはできないものの、子供の発達への好影響を踏まえると、恵まれない家庭に対する優遇措置の拡大を検討すべきであるようにみえる。

有望だが、さらなる検証が不可欠

 私達の研究は、現代の経済学で要求される分析の質を満たすべく最善の注意を払ったが、他のあらゆる研究と同様に不完全な点を残している。したがって今後、様々な研究者が様々な方法で同様の問題を検証することで、結果の信頼性が確認される必要がある。

*1:Carolina Abecedarian ProjectとCarolina Approach to Responsive Educationの場合。Garcia, Heckman, Leaf, and Prados (2016)を参照。

*2:差の差法と操作変数法を組み合わせている。両手法の初学者向けの説明は中室・津川 (2017) がよい。これ以上は論文を読んで欲しい。

*3:この論文では、母親の学歴が高卒未満である家庭を社会経済的に恵まれていない家庭としている。

*4:この他には、子供が行儀良く振る舞うことを保育園で覚えてきたため、しつけが楽になり体罰を行わなくなったということもあるだろう。

高等教育無償化を正当化しうる5つの理由

高等教育は「個人利益」か

f:id:mendota:20170516022605j:plain

 安倍総理自民党総裁として示した憲法改正提案には高等教育の無償化が含まれている。当然、財源はどうするのかといった問題が出てくるわけで、財務省は否定的な姿勢だ。

jp.reuters.com

高卒者と大学・大学院卒者では「生涯所得が6000─7000万円異なる」(独立行政法人労働政策研究・研修機構)ことから、財務省の提案では、高等教育が「生涯賃金の増加につながるという私的便益が大きい」と位置づけた。

 教育がそれを受けた本人のみに利益をもたらすならば、経済効率的には政府が介入する必要はないので、この財務省の主張は正しい。教育に対する補助金はインセンティブを歪め、教育水準が過剰に上がってしまうだろう。

 しかし、教育がそれを受けた本人のみならず、社会全体に利益をもたらすならば話は変わってくる。個々人は自分が受ける利益だけを考慮するが、自分の教育が社会全体に及ぼしうる利益を考慮しないため、教育投資が過小になってしまうからだ。*1この場合、政府の介入、たとえば補助金は正当化されうる。*2

教育無償化を正当化しうる5つの理由

 Moretti (2006)を下敷きにして、教育無償化を正当化しうる根拠を列挙してみよう。

教育のスピルオーバー効果

 教育が社会全体に利益をもたらす代表例は、生産性にスピルオーバーがあるケースだ。シリコンバレー発展の説明に、優れたアイデアは優れた人々が集まることでより生まれやすくなるためだというものがあるが、これはまさに生産性のスピルオーバーを指している。*3

犯罪減少を通じた社会的費用の低下

 教育は犯罪を減らす効果があることも知られている。教育水準が高ければ、まっとうに働くことで得られる利益が、逮捕されるリスクを抱えて犯罪に手を染める利益を上回ることが理由のひとつだ。もちろん、教育を受けることで、本人や周囲の犯罪に対する態度が変わることも考えられる。*4

借り入れ制約

 進学のための借金ができない、または金利が極めて高い場合にも、教育に対する補助金が正当化される。上の記事にあるように、大学進学は生涯所得を大きく伸ばすが、それを当てにして借金することは難しい。利益が出ることが見込まれているにも関わらず、教育投資が過小になってしまうのだ。この場合には、貸費・給費の奨学金や教育に対する補助金は問題を解決することが出来る。*5

教育の次世代への影響

 教育が世代を超えて及ぼす効果も考慮すべき要素だ。多くの研究は、親の教育水準がこどもの健康や教育水準に強い影響をおよぼすことを示している。こどもに及ぼす利益も100%考慮した上で、親が自分の大学進学を判断しているのならば補助金は不要だ。しかし実際には、まだ生まれてもいないこどもの利益を完全に考慮に入れて判断しているとは考えにくい。よって、次世代に及ぼしうる利益は過小評価されている可能性が高いが、教育に対する補助金はこの問題の解決に役立つ。*6

卒業後稼げないリスクへの保険

 大学進学は平均的には生涯所得を大きく伸ばすが、結果的には当てはまらない人もいるだろう。一般論として、大学進学は割のいい投資であるが、思ったほどには稼げないというリスクもついている。このリスクに対する保険が存在しない場合、リスク回避的な人は進学をためらい、教育投資が過小になってしまう。進学時には補助金を払い、将来は累進課税を通じて回収するというのは実質的に保険の提供になるので、やはり教育投資が過少になるのを防ぐことにつながる。*7

では、高等教育は無償化すべき?

 ここまではあくまで理論的に教育補助金が正当化されうるケースを列挙したに過ぎない。実際に高等教育を無償化すべきどうかは、上で挙げたような利益がその費用を上回るかどうかにかかっている。*8残念ながら、こうした利益の計算を正確に行うだけの実証研究の蓄積は存在しないため、経済学の実証的な裏付けを持って無償化すべきとも、しないべきとも言い切ることはできない。

 もちろん、これは上で挙げたような議論を全く考慮しなくていいということではない。少なくとも、こういう論点があるので、なかなか結論を断言できないものなのだなとわかることが大切である。*9

 

*1:経済学の専門用語で言うと、「パレート改善の余地が残る」ということ。増えた余剰をどう再分配するかは別の問題。

*2:経済学の専門用語を使って言うと、「市場の失敗」がない限り、政府の介入は正当化されないということだ。

*3:Morettiがこの分野で数多くの論文を書いており、代表例はMoretti (2004)だ。後追いとなった論文が多く、支持する専門家も多いようであるが、Cicconi and Peri (2006)は重要な反論であり、完全に決着したとはいえないように見える。

*4:Lochner and Moretti (2004)

*5:このトピックはたくさんの論文が書かれているが、例としてBrown, Scholz, and Seshadri (2012)

*6:Currie and Moretti (2003)

*7:Moretti (2006)

*8:厳密に言うとこれは必要条件で、高等教育無償化から得られる利益が、実行されていない他の投資機会から得られる利益を上回っている必要がある。

*9:このブログポストでは経済効率上の論点だけを取り上げたが、高等教育へのアクセスの平等性といった経済効率以外の問題も、政策決定上は重要な要素である。