『「家族の幸せ」の経済学』発売!

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「『家族の幸せ』の経済学」カバーと帯

結婚・出産・子育てについての経済学研究をわかりやすく紹介した私の著書が光文社新書より本日(7月18日)発売されました。

ぜひ、読んでみてください!

内容紹介

大竹文雄氏(大阪大学大学院教授・『経済学的思考のセンス』)
「結婚、子育てで悩む人に、最新のエビデンスとその活かし方を気鋭の経済学者が教えてくれる」

中室牧子氏(慶應義塾大学教授・『「学力」の経済学』)
「私が選んだ、2010年代のベスト経済書。ものすごくわかりやすいのに、知的刺激に満ちた一冊。」

あなたを安心に誘う真実が満載!
□ 保育園は、母親の「幸福度」を高める
□ 保育園は、子どもの「攻撃性」を減少させる
□ 「育休3年制」は意味がない。1年で充分
□ 母乳育児の「知能」「肥満」への効果はない
□ 日本の低出生体重児の数は世界3位
□ パパの育休は、子の16歳時の偏差値を上げる

◎内容紹介◎
帝王切開なんかしたら落ち着きのない子に育つ」
「赤ちゃんには母乳が一番。愛情たっぷりで頭もよくなる」
「3歳までは母親がつきっきりで子育てすべき。子もそれを求めてる」
出産や子育ては、このようなエビデンス(科学的根拠)を一切無視した「思い込み」が幅をきかせている。
その思い込みに基づく「助言」や「指導」をしてくれる人もいる。
親身になってくれる人はありがたい。
独特の説得力もあるだろう。
しかし、間違っていることを、あなたやその家族が取り入れる必要はまったくない。
こういうとき、経済学の手法は役に立つ。
人々の意思決定、そして行動を分析する学問だからだ。
その研究の最先端を、気鋭の経済学者がわかりやすく案内する。

◎目次◎
第1章――結婚の経済学
第2章――赤ちゃんの経済学
第3章――育休の経済学
第4章――イクメンの経済学
第5章――保育園の経済学
第6章――離婚の経済学

少人数クラスで学力は上がるか

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  少人数学級の是非は、教育政策上の最も大きな論点の一つだ。2015年には、財務省文部科学省の間で、少人数学級の是非を巡って激しい論争が繰り広げられた。

 財務省の主張は、少人数学級の効果は見られないので、35人学級を廃止し40人学級に戻すべきというものだ。これにより、必要な教職員数が約4,000人減り、人件費の国負担分を年間約86億円削減できるという。

 一方、文部科学省は、教員の多忙感や、きめ細かい指導といった観点から35人学級の維持を求めた。

 結局、財務省の提案は世論の支持を得られず、35人学級が続けられることとなった。ひとクラスあたりの児童数・生徒数は少ないほうがいいというのは、多くの人の直感にあっている。私自身、選べるならば、子供は少人数学級で学ばせたいと思う。

 しかし、実際のところ、少人数学級には子供にとってどのような効果があるのだろうか。

大規模データで少人数学級の効果を検証

 筆者は、慶應義塾大学総合政策学部の伊藤寛武助教、中室牧子准教授*1とともに、少人数学級の効果を検証した。この研究には、関東地方のある自治体がデータと研究資金を提供してくださった。データは県内の公立学校に通う、小4から中3までのすべての児童・生徒を対象としており、のべ300,000人ほどが調査対象となった規模の大きな調査である。

 この研究は、経済学の学術誌のひとつ、Japan and World Economyに出版された。論文に対してコメントや質問、そして批判があれば、ぜひ著者らに伝えてほしい。

www.sciencedirect.com

学力への効果は限定的、非認知能力には影響なし

 私達の分析では、国語と算数の学力試験の結果と、心理的特性についてのいくつかの指標を利用している。ここで分析している心理的特性は、勤勉さ、自制心、自己肯定感であり、これらは学力向上に有益であると考えられている。なかでも勤勉さは、大人になってからの所得などとも関連があることが知られている。

 これら心理的特性は、学力によって測られる認知能力と区別して、しばしば非認知能力と呼ばれ、近年の労働経済学で注目されている能力だ。

 データ分析の結果、少人数学級が学力に与える影響は小さいことがわかった。もう少し具体的に言うと、クラス内の児童数を10人減らすと、学力は偏差値換算で0.5上がるようだ。一方、上で挙げたような非認知能力に対しては、少人数学級はほぼ影響しないことがわかった。

 われわれの推計値は、日本のデータを使った他の研究と大差無い。もちろん、大きめに出ているものも、小さめに出ているものもあるが、驚くような差ではない。また、我々のデータについては、分析手法を変えても推計値はあまり動かなかった。研究ごとに推計値が多少ばらつくのは、分析手法の違いというよりは、分析対象(地域・学年・教科)が違うためではないかと考えている。

少人数学級が最善の策か

 今回のわれわれの研究を含め、日本のデータを使った研究の多くは、少人数学級は学力に対しても、非認知能力に対しても効果が大きくないことを示している。文科省は、少人数学級が、教員の多忙感の解消につながると主張したが、その点について検証するためのデータが容易には得られないため、本当のところはよく分かっていない。

 確かに、現場の教員はかつてないような困難に直面しているし、それに対して十分な人的・経済的リソースが与えられているわけでもない。さまざまな障がいを持った子供たちへ対処しているし、これからは、日本語力が不十分な子供たちへの支援も必要だ。部活動にかかわる負担感も増しているし、近年では事務負担も増える一方だ。

 こうした問題を解決するための政策的な取り組みがなされるべきではあるものの、その対策として、少人数学級が最善であるかどうかは別の話だ。教員の多忙感の解消のためには、教員の加配や、事務職員、専門スタッフの配置といった手段のほうが、より費用対効果が高いかもしれない。少人数学級は「魔法の杖」ではないのだ。

 

 

 

*1:肩書は論文執筆時

「保育園通いの効果」研究の関連記事一覧

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 東洋経済ONLINEの「経済学で読み解く現代社会のリアル」というコーナーに寄稿しました。

toyokeizai.net

 この記事では、国内外の幼児教育の効果に関する科学的研究を広く紹介していますが、その中で、私自身の研究にも軽く触れていますので、この機会に関連資料をまとめて掲載します。

 まずは当ブログでの解説記事。

labor-econ.hatenablog.com

 続いて、現代ビジネスでの2回に渡る記事

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

 そして、日経新聞の経済教室(PDFファイル

www.nikkei.com

 最後に、これらの記事の根拠となっている学術論文です

www.sciencedirect.com

  有料でしか見られない場合は、こちらから無料版にアクセスできます(11月12日まで有効)。

「根拠に基づいた政策形成」には行政データの活用が鍵

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 前回前々回に続き、「根拠に基づいた政策形成(EBPM)」の話。

 より良い政策を行うためには、質の高い政策評価・プログラム評価が欠かせない。これから行おうとしている政策がどんな成果(とひょっとしたら副作用)をもたらすのか、できるだけ詳しく知ることは、質の高い意思決定につながるためだ。

 こうした認識は欧米の政策担当者に共有されており、「根拠に基づいた政策形成」(Evidence-Based Policy Making, 以下ではEBPMと略)の流れは日本でも少しずつ取り入れられてきているようだ。

 日本におけるEBPMの導入にはいくつも課題があり、私も過去にこちらのインタビューで詳しく答えている。

style.nikkei.com

データ=政策評価ではない

 EBPMを行う上で、データの存在は大前提であるが、データがあるからと言って直ちに質の高い政策評価分析ができるわけではないということを前回のブログポストでは指摘した。

 データの存在だけでなく、ある種の「実験」が必要であるというのがその要点なのだが、この「実験」というのが厄介である。社会実験を行うのは実務上も倫理上も大変な困難を伴うし、自然実験を見つけてくるというのは職人芸に近い。特別な訓練を長年受けた研究者がようやく発見にいたるというもので、専門性のない人では全く歯が立たないだろう。

 「実験」は行うのも見つけるのも困難だとしても、政策評価の質を高めるために有効な取り組みは存在する。

定期的なデータの取得

 ひとつの方法は、普段から定期的にデータを取得しておくというものだ。定期的にデータを取得しておけば、たまたま政策変化が起こるなどして自然実験が見つかれば、政策評価を行うことができる。

 私達の保育所利用と子どもの発達に関する研究は、そうした例の一つである。分析に利用した21世紀出生児縦断調査は、保育政策の評価のために行われた調査ではないが、結果的に政策評価に利用することができた。

行政データの活用が政策評価改善への近道

 もうひとつの、おそらくはより望ましい方法は、業務で利用している行政データを活用するというものだ。行政データならば、新たに調査を行う必要もなく、巨額の費用がかかる心配もない。

 加えて、一般の統計調査と違って回収率はほぼ100%である。高い回収率は、日本全体の平均像を正しく映し出すためには不可欠だ。そして、そこに含まれている情報も精度が高い。年収を聞く調査は多いが、正確に覚えている人がいるはずもなく、ほとんどの人は概数で答えている。しかし、税務データが利用可能であれば、正確な課税収入額がわかる。

 こうした行政データの活用では、北欧諸国が先端を走っている。出生時の体重から、健康診断結果・通院歴、学校での成績、課税収入などすべての情報が紐付けられており、研究者が分析することで、政策形成に役立てている。もちろんプライバシー保護は配慮されており、そのための対策はIT技術の活用により低コストで行うこともできる。

 日本でも、こうした行政データの活用を進めることが、政策評価の質の改善、ひいては質の高い「根拠に基づいた政策形成」への近道だろう。

データ ≠ エビデンス

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 前回に引き続き、「根拠に基づいた政策形成(EBPM)」の話。

 このブログでも過去に取り上げた、保育園通いと子どもの発達の関係についての研究についてたびたび講演を行っている。*1

 幸い、多くの方に関心を持っていただき、講演ではたくさんの質問をいただく。特に多いのは、「幼稚園と保育園では子どもの発達に違いは出るの?」、「認可保育所無認可保育所での違いは?」、「どういう保育所が子どもの発達にいいの?」といったものだ。

 実際にはもう少しマシな答え方をするものの、率直な答えは「信頼性の高い研究がないのでわかりません」というものだ。なぜわからないのかと続けて聞かれれば、そもそも調査が行われていない・データが無いためだと答えているが、実はこれは半分正しくて、半分正しくない。 labor-econ.hatenablog.com

データだけでは不十分

 私の経験した範囲では、一般の人々のみならず、教育の専門家・研究者でも、調査を行えば上の疑問に対する答えが得られると思っている人は多い。しかし、調査が行われてデータがあるというのは必要条件に過ぎず、データがあるからといって必ずしも上の疑問に対する答えを得られるわけではない。

単純な比較から因果関係はわからない

 「保育園通い」の効果を知るにはどうしたらいいだろうか。すぐに思いつくのは、保育園に通っている子どもと、通っていない子どもの発達状態を比較することだ。

 しかし、保育園に通っている子どもと、通っていない子どもの間では、家庭環境が大きく異なる。21世紀出生児縦断調査によると、保育園に通っている子どもの母親の24%が四大卒以上であるのに対し、通っていない子どもの母親では、四大卒は19%である。

 したがって、保育園に通っている子どもと、通っていない子どもで発達状態を比較しても、その違いが保育園通いの有無のためなのか、母親の学歴に代表される家庭環境の違いを反映しているのか区別がつかない。データがあっても、単純な比較から「保育園通いの効果」を知るのは極めて難しいのだ。

広義の「実験」が必要

理想的には社会実験を

 「保育園通いの効果」を知るためには、データがあることに加えて、広い意味での「実験」が行われる必要がある。理想的には、薬の効果を検証するためのものと同様な実験があるといい。つまり、無作為に保育園に通う子どもと通わない子どもを決めて、その後の発達を調査するのだ。もっとも、そんな実験は倫理的に問題があるし、やったとしても、拒否する人が多くて上手くいかないかもしれない。

自然実験による因果関係の解明

 もう一つの方法は政策変更を利用するやり方だ。私達の研究では、2000年台に子ども一人あたりの保育所定員が増えた地域と、あまり増えなかった地域を比較している。*2 2000年時点では、両地域の経済的な豊かさなどに大きな違いがなかったため、両地域における2000年台の子どもの発達の変化の違いは、保育所利用の変化の違いに帰着できると考えられる。

 こうした政策変更をある種の社会実験とみなし、自然実験などと呼ぶことがある。人為的に行われた実験ではなく、自然の手で(ここでは政治家・政策担当者の手であるが)あたかも社会実験が行われたようにみなせるためである。

データと「実験」の両者が因果関係の解明には不可欠

 こういうわけで、何かの「効果」を知るためにはデータが手に入っただけでは不十分なのである。理想的には社会実験、それが無理ならば分析に適した自然実験を見つけてこなければならない。ここが経済学者を始めとする、社会科学者の腕の見せ所でもあるのだが、相当な訓練を積んでようやくできるようになるようなものだ。因果関係の解明というのは、とっても大変な作業なのである。

*1:日経新聞の「経済教室」や、現代ビジネス(記事1記事2)でも記事を書いているので、そちらも見てほしい。

*2:ここでは研究の基本的なアイデアについて述べている。厳密に何が行われたかを知るには論文自体を読んでほしい。

調査は設計がすべて

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  「この調査、もっと良くすることできませんか?」、「〇〇の効果を知りたいんですけど、この調査からどうすればわかりますか?」といった相談をよく受ける。

  大学では政策評価教育研究センターに所属しており、調査やデータ分析に関する相談は大歓迎だ。官公庁、自治体、団体、民間企業を問わず、ぜひ力になりたいと思っている。しかし、冒頭のような相談はなかなかやっかいだ。調査内容がほぼ固まった、ないしは調査が既にスタートしてしまった段階でできることは、ほとんど無いからだ。

「設計ミス」のある調査からは何も学べない

 よくあるパターンのひとつは、調査が終了してからの「〇〇の効果を知るにはどういう分析をすればいいですか」という相談だ。データ分析によって、何かの政策・介入効果を知ることができるかどうかは、調査設計によって決まる。調査設計に失敗していれば、どんなに洗練された統計手法や、高度なAI・機械学習を適用しても、政策・介入効果について知ることはできない。

 最悪のミスは、比較対象が調査に含まれていないというものだ。たとえば、ある職業訓練プログラムの効果を知りたいとしよう。この訓練の効果を知りたいならば、訓練を受けた人と受けていない人で比較しなければならない。あるいは、せめて訓練を受ける前と後でどのように能力が変化したのかを比較しなければならない。*1

 それにもかかわらず、訓練を受けた人が訓練終了後にどうなったか調査して済ませてしまうことがある。適切な比較もなしに、効果があったかどうかなど、わかりようもないのだ。こういう調査からは何も学べない。完全な失敗である。

 もうひとつのパターンは、第一回目の調査が実施済みで、第二回目以降の調査についてアドバイスがほしいというものだ。この手の継続調査、追跡調査のキモは、回を変えても同じ質問を聞き続け、調査対象の回答がどのように変化していくかを追跡していくところにある。毎回コロコロ聞くことを変えてしまっては、追跡調査としての意味がないのだ。

 この場合、私ができる最善のアドバイスは「ぜひ、同じ質問を続けて聞いてください。文言も変えないように。」というものである。第一回目の調査がまずかったとしても、後でリカバリーなどできない。やるとしたら、第一回目からやり直すしかない。

早い段階で専門家に相談を!

 調査の質を上げることができるのは、それが始められるまでだ。持ち込まれる相談に対しては、最大限建設的なアドバイスをするようにしているが、「手遅れ」になってしまっている場合、大してお役に立てない。

 調査の質を最善のものにしたいのならば、ぜひ早い段階で専門家に相談してほしい。規模が小さいものでも、調査には大金がかかる。そのお金を無駄にしたくないのならば、手間を惜しまず、調査設計の初期段階で専門家の力を借りるべきだ。

*1:実はこれでも不十分だが、スタートラインには立てていると思うので、ひとまず良しとしておこう。

「AI失業」は起こらない

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 人工知能の発達はめざましく、これまでになかったような製品・サービスが生み出される一方、私達の仕事が人工知能によって奪われてしまうのではないかという懸念も抱かれている。オックスフォード大学のフレイとオズボーンの論文によると、アメリカでは次の10-20年の間に47%もの仕事が機械によって置き換えられる可能性があるそうだ。

 人工知能は近年急速に発達した技術であるが、テクノロジーが仕事を奪うという懸念自体は新しいものではない。あのラッダイト運動は200年前のものだし、もう少し新しいものでは1964年にアメリカのジョンソン大統領が諮問委員会を設置し、自動化の進展により雇用が奪われる可能性について検討された。

 今も昔も悲観論者の中にはテクノロジーが仕事を奪い、街には失業者があふれると予言するものが少なくなかったが、果たして実際にはどうなったか。失業率景気変動に応じて上下するものの、長期的な上昇トレンドにはない。就業率でみるとむしろ上昇傾向にある。こうした歴史を振り返ると、テクノロジーのせいで失業者が街にあふれるといった懸念はあまりに極端で、現実的ではなさそうだ。

 しかしテクノロジーの目的の一つが省力化・自動化である以上、人々の仕事には少なからず影響を及ぼすはずである。テクノロジーは一方で仕事を奪い、他方で仕事を生み出す。失業者が街にあふれることはないだろうが、「勝ち組」と「負け組」を作り、人々の労働所得に影響を与えるかもしれない。これまでなされてきた議論はテクノロジーが仕事を奪う側面にばかり注目してきたが、本稿ではテクノロジーが労働市場全体をどう変えうるか、論点を整理する。

3つの主要な論点

 技術革新は産業構造や労働者の就業行動の変化も引き起こすため、「機械が仕事を奪う」と単純に結論付けられない。経済学に詳しい読者のために、あえて専門用語を使い論点を列挙すると、

  1. 技術(資本)と労働は代替的か補完的か
  2. 生産物は価格・所得弾力的か
  3. 労働供給は弾力的か

とまとめられる。*1

技術と労働の補完的な関係

 技術が労働に置きかわる側面ばかりが注目されているが、他方で技術は労働者を助け、労働生産性を向上させる側面も見逃してはならない。

 個人で行うにせよ、チーム・組織で行うにせよ、ほとんどの生産活動は多数の性質の異なる作業を組み合わせて行われる。たとえば研究という生産活動においては分析的・創造的な作業が中心であるが、対人コミュニケーション業務もあるし、単純な事務作業、肉体労働的な作業も伴う。そしてこれらの作業はどれが欠けても円滑な研究の遂行に支障が出るという意味で、相互に補完的である。

 このように作業が相互に補完的である場合、一つの作業の生産性の向上は全体の生産性の向上につながる。単純作業や肉体労働が自動化されると、人は分析的・創造的な作業や対人コミュニケーションにより多くの時間を割くことができるようになる。もちろん単純作業だけが仕事であるような労働者は転職を余儀なくされるかもしれないが、自動化により労働生産性が向上し、賃金が上昇する仕事の存在にも目を向けるのがバランスの取れたものの見方だろう。

技術革新は産業構造を変える

 技術革新は産業構造も変える。生産性向上は所得を増加させるが、増加した所得は最終的には何らかの消費に向けられる。したがって、所得増加に応じて需要が大きく増大する(需要の所得弾力性が大きい)医療・介護などのサービス産業においては、労働需要が増える。

 こうした産業構造の変化には時間がかかるが、歴史的には着実に進んでおり、雇用もそれに応じてシフトしている。ただし、これまで製造業で働いていた人がサービス業に転職するといった形ではなく、新たに就職する若い世代や、いちど労働市場から離れた女性が再び働き始める際に、製造業ではなくサービス業を選ぶといった形で変化が起こるようだ。*2

 また、生産性が向上することで、当該産業の生産物価格が低下する。生産物価格の低下に応じて需要が大きく増大すれば、産業の成長につながり労働需要も増える。もっとも、このシナリオは短期的には正しいものの、長期的には労働需要減少に結びつくことが多いようである。*3

 こうした問題意識から行われた最新の研究*4によると、生産性の向上は自産業の雇用縮小を引き起こすものの、他産業での雇用拡大につながっているようである。

成長産業でも賃金は伸びない可能性

 技術革新は長い時間をかけて産業構造を変化させ、サービス業における雇用も大幅に増加し続けてきた。これは生産性向上により所得が増大し、サービス産業に対する需要が増えた一方、大半のサービス職は対人コミュニケーションを必要とするため自動化により機械に代替されなかったからである。

 こうしたサービス職に対する労働需要は増加したものの、彼らの賃金はあまり上昇していない。これはサービス職の多くが低スキルであり、労働需要が増えるのに合わせて、労働供給も増えたためである。仮にサービス職で必要なスキルが高度で、該当する人材がなかなか見つからないようなものであれば、労働需要が増大しても労働供給は十分に増えず、賃金は上昇しただろう。

人工知能は仕事を奪うか

 ここまでは経済理論上の論点を整理したが、これらは1980年代以降の先進諸国の経験と整合的である。一方で、人工知能はこれまでのコンピューターによる技術革新とは全く性格が異なるから、上のような議論は当てにならないとする向きもあるかもしれない。実はそうした反論自体、歴史的には繰り返されてきたのだが、たしかに人工知能はこれまでの技術とは異なる点がある。

自動化の領域は拡大

  これまでの自動化技術は、何をどうやればうまくいくのかがよくわかっており、その内容が定式化可能な作業に適用されてきた。言い換えれば、作業をプログラムに書き下せるものが自動化の対象とされてきた。

 一方、人工知能は膨大なデータを統計的に処理した結果にもとづいて正解を判断するため、なぜそうなるのかがうまく説明できないような人間の暗黙知に取って代わろうとしている。したがって、従来は自動化の対象とならなかったような領域が自動化の対象になろうとしている。では、人工知能は我々の仕事を奪うのだろうか。

人間の知識を補完

 将来予測は難しいが、私は上で述べた3つの論点は将来を占う上でいずれも有効だと考えている。特に見逃されがちな論点として、人工知能は多くの頭脳労働者と補完的な関係にあり、彼らの生産性を高めるという点を指摘しておく。医師が診断を下し治療方針を決める際に、人工知能は意思決定の大きな助けになるかもしれないが、倫理的な価値判断を伴う意思決定そのものを行うことはないし、患者とのコミュニケーションも医師の重要な業務である。このような点は弁護士、会計士、研究者といった多くの専門職に当てはまるだろう。*5

所得再分配政策・教育の役割が一層重要に

 人工知能のせいで街に失業者があふれるようになるとは考えにくいものの、これまでの技術革新同様、人々の所得を変化させる可能性は高い。一部の高スキル労働者や、技術・資本を所有する資本家階層は大きな富を得るだろう。その結果、所得格差の拡大が進み、所得再分配政策の重要性が今後高まるかもしれない。

 また、自動化されにくい分析的・創造的な作業や対人コミュニケーションに長けた人材を増やしていくための高等教育の役割も高まるだろう。実践的な職業教育の必要性を求める声もあるが、そこで身につけたスキルは技術変化で陳腐化しやすく、人工知能やIT技術に容易にとって代わられかねない。一見遠回りに見えるかもしれないが、学問を学ぶことで論理性・分析力を身に着けておくことの価値は高まり続けるだろう。 *6

(この記事は2017年9月10日に行われた日本経済学会パネル討論「技術革新と労働市場」での講演に基づいている)

*1:この論点整理はAutor (2015)を参考にしている。

*2:Lee and Wolpin (2006)

*3:Bessen (2017)

*4:Autor and Salomons (2017)

*5:喜連川優氏によると、まれにしか起こらない事象の認識・取り扱いも人工知能は苦手とするようだ。人工知能はデータに基づいて判断するが、まれにしか起こらない事象については当然データが不足するためである。

*6:Goldin (2001)の議論を参照。